ときは今 雨が下しる 五月哉
明智光秀画像 (本徳寺蔵)
「敵は本能寺にあり!!」
天正10年(1582)6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反をおこし、京都本能寺を襲撃し、主君信長を討った「本能寺の変」。
その5日前、つまり5月27日、
光秀は京都の愛宕山に参詣し、祭神の愛宕権現太郎坊(迦具土神)の御前で三度くじを引いたといわれています。三度とも「凶」だったとか…
(渡月橋と愛宕山)
光秀が愛宕山に
登った理由は、当時軍神と崇められていた勝軍地蔵が愛宕山にあり、中国攻め援軍の戦勝祈願(名目)のためと、
翌、5月28日に愛宕山山内の西坊威徳院で愛宕百韻として連歌の会(歌会)が行われたからです。
(愛宕神社)
その時、光秀が詠んだ句が、
「ときは今 あめが下しる 五月哉」
明智家は元来、土岐氏の末裔であり、その土岐が「あめ」と「天」をかけて「下なる」、つまり「天下」をとる時期が来たと解釈できます。
後に、山崎合戦で勝利した羽柴秀吉(豊臣)は、
この歌会で一緒だった里村紹巴を謀反の心情を理解していたのではと問い詰めます。秀吉からの疑いを恐れた紹巴は、
「ときは今あめが下なる五月哉」と、単なる五月雨の情景を詠った句だと細工し
その難を逃れます。
僕が思うに明智光秀は、5月の27・28日時点で、ほぼ謀反の決意があったと考えます。
「本能寺の変」は、日本の歴史史上、最大のミステリーといわれています。
しかし、愛宕山から光秀も見たであろう京都の風景は、
まさに!
「信長、討つべし!!」
と決意したのではないでしょうか?
また、「本能寺の変」の謎は後日に書きたいと思います。
保津川下りでは、この光秀が登った愛宕山を望むことが出来ます。
標高924メートル、京都市内から見える山で一番高く、京都では親しみをこめて
「あたごさん」
と呼びます。
(byさいたに屋)